Archive for Promise Land: Israel Trip

イスラエル旅行記12 エルサレム最終日

 

この日は主人と一緒にエルサレムのホテルで一緒に過ごしました。

 

夫婦の回復というか、祈る時間が必要で、二人、静かにお互いの気持ちを話したり、赦し合う時間を持ちました。

 

そのときの気持ちを旅行の思い出とともに、絵葉書に書き込み、最終日に送りました。帰ってからも、イスラエルでの出来事をリマインドするためでもあります。

 

 

このイスラエルの旅行は、3ヶ月経った今でも、私の中に大きな変化を与えてくれた旅となりました。

 

 

一緒に旅に行った仲間たちとの思い出は一生の思い出です。

 

 

イスラエルから帰り、日常生活が始まりましたが、その後、色々な形で自分を見つめる機会がありました。そして、自分の弱さ、罪深さ、そいういったものと直面しています。ですが、イスラエルに行ったときの風景を思い出すと、自然とイエス様の思いとイスラエルの風が思い起こされ、自分には本当に必要な体験だったのだと感じます。

 

もし、また機会があるのでしたら、イスラエルに行ってみたいです。

 

 

主人と一緒に食べたエルビスのバーガーで旅行記を〆たいと思います。

イスラエル旅行記11 コラジン、ゲラサ地方、ベトシャンからのエルサレムへ

お待たせしました~。(誰も待ってない?)

イスラエル旅行記もついに11ですよ。やっと時間をとって書き上げることができました。

 

もう2か月もまえのことですが、どうぞお楽しみください。

 

 

この日はツアー最終日でした。

ガリラヤ湖の朝です。

お散歩の途中でパチリ。この日は曇り空のイスラエルでした。

 

朝ごはんを食べて、

バスで移動、コラジンです。

こちらにもユダヤ人の清めのお風呂があります。コラジンはユダヤ教の文化の中でも中心的な場所であったと聞きます。

会堂跡には

モーセの椅子(マタイ23:2)がありました。このことからも立派な会堂だったのかな?と感じました。

ここではとても興味深い話を聞きました。それは、ヘブル語の1という数は単数形ではないという話です。意味合い的には、「ハーモニー」「綺麗な和音」のイメージでみたい。混ざり合っているものでも1つという意味があるということで、父、子、聖霊という三位一体の概念や、男と女が一つになるという夫婦の概念もなるほど!とすんなり入るそうです。

さて、コラジン、ベツサイダ、カペナウムはマタイの11章では呪われた町として描かれています。当時、この3つの町は栄えた町でした。今でいうならば、東京の銀座、表参道、恵比寿とかそんな感じでしょうか?イエス様はそのような場所にたくさんの罪びとと一緒にいました。貧しい人、臭いのきつい人、目をそむけたくなるような人たちを大勢つれて歩いていたのです。銀座に浮浪者がたくさんいたら私たちはどう思うでしょうか?「TPOを考えて!」とか「ふさわしくない」と差別したと思います。まさにそれが律法学者やパリサイ人たちの反応でした。

神様は私たちの心を見ておられるのですよね。悔い改めと神に仕える動機をが大切なことをもう一度思うひと時となりました。

 

だんだん晴れてきましたよ~!

 

バスで移動ののち、ゲラサ地方へ。コラジンやカペナウムから反対岸です。

(この日は前日の雨のため、当初予定していた5千人のパンの奇跡の場所へは立ち寄れませんでした。足元がぬかるんでいるとよくないとのガイドさんの判断でした。もし次にイスラエルに来ることがあれば、ぜひそちらも訪れたいな。)

 

ゲラサは、当時デカポリスの一部で、ローマの支配下にありました。つまり異邦人の町です。イエス様は、この異邦人の町に住む、たった一人の悪霊につかれた男性を開放するために、湖を渡ってきたのでした。(しかも、嵐の中を。)この人は気味が悪く、だれからも愛されない人でした。

聖書を読むと、イエス様は船に乗って向こう岸へ行こうと伝え、嵐にあっています。弟子たちは嵐におじけづき、イエス様に助けを求めます。しかしイエス様は不信仰を指摘し、風に向かって叱ります!(# ゚Д゚)

ですがよく考えてみると、イエス様はすでにこの時に、自分を数時間後に迎えるであろう悪霊つきの男にフォーカスしていたのかもしれませんよね?だから、静まれ!と嵐を叱りつけ、旅を続行させた…と思うと納得がいきます。これがもし弟子だけの伝道旅行だったら、命の危険を冒してまでも嵐の中を湖を渡って会いに行く価値なんてない人ですので、さっさと引き返していたことでしょう。(私が弟子ならそうします。)でも、イエス様は違うんです。

イエス様の愛、どれだけ深いのぉ?

 

と叫びたくなります。

イエス様は、罪人を愛しました。そして自分の生きる意味を知っていたので、このサタンに束縛されたたった一人のためにガリラヤ湖を渡り、対面し、そして解放してあげました。

きっと神様の御旨を計り知れなかった弟子たちは「嵐でやれやれ助かった〜」のあとに悪霊付きの人が出て来たら、一難去ってまた一難と、イエス様といると変な奴までついてくるなぁとかうざったく思ったかもしれませんよね。でも、この時のイエス様の行動一つ一つが弟子たちにとってはすごいロールモデルであり、模範であり、だからこそ弟子たちはペンテコステの後、力を受けた時にはあんなにも大胆に悪霊を追い出したり、イエス様の権威をもって、また愛を持って行動できたのかなと感じました。

 

結局、聖書によるとこの後、悪霊は豚に入り、その豚たちが湖でおぼれ死んでしまったため、現地の人には「どうか出て行ってください」と言われ、後にも先にもイエス様はこちらには来ていません。

 

イエス様はみんなが見捨てて、あきらめちゃった人をあきらめず、見つけ出します。そうやって私も見つけてもらえたことの感謝が、この地で(´;ω;`)ブワッってでてきました。

 

実は、ツアーの参加者全員が、ここで特別な霊的な啓示を受けたりして、後の証し会で分かったことなのですが、予定変更で訪れたのに、実は神様がここに初めから連れてきたかったのだと確信に変えられた時間でした。

 

このゲラサで癒された人は、イエス様についていきたいと願いますが、イエス様はここでとどまるように言います。福音書にはイエス様と一緒に来るように言われる人と、とどまるように言われる人がいます。ですが、単にとどまるのは信仰が足りないとか、準備ができていないということではなく、イエス様はあえて、のちの計画のために残すことがあるという話もありました。ゲラサではこの人がそうでした。

 

この人だけが救いを受けました。きっとこの人はサマリヤの女のように、イエス様の素晴らしさをデカポリス地方で伝えたことでしょう。そしてそれはローマ人やデカポリス地方を通ってシリアやレバノン方面にも伝わるでしょう。もしこの男が留まって福音を伝えなければ、「イエス様は悪霊を豚に追いやった恐ろしい人」という噂だけで終わってしまいます。イエス様の本質的な愛や神様の救いの計画、つまり福音が広がらないわけです。イエスの死と復活は当時の一大ニュースですから、きっとこの悪霊から癒された男の人がそのニュースを知った時、イエス様の福音を地域で伝える大きな役割をしたのではないかと思います。しかも、この人しか直接イエス様に会って癒してもらった人はいないとなったらどれだけこの人の存在意味は宣教的な観点からみても大切だったことでしょう。

イエス様はそんなことまでももう考えて、この人に「あなたはとどまりなさい」と話したのかもしれません。

以上、ガイドさんが話してくれました。

 

ルカ8:22から39までのたった何十節の中には神様の壮大な計画があったのだと気づかされました。

 

説明を聞いた後の景色は、イエス様の愛を受けてまた一段と柔らかく感じました。

 

美味しいご飯を食べた後は、ベトシャンへ。

こちらは模型です。

現在も遺跡の発掘作業をしています。有名なところだとサウル王が殺されて、首を取られるところです。

ローマの雰囲気がすごく出ています。

ローマ兵のための劇場⬇︎ (すごく音響いいのよ)

⬇︎ローマ式お風呂のあと(テルマエロマエの世界じゃぁ笑)

⬇︎ローマ式集団トイレ 笑

 

 

そしてサウル王とヨナタン王子の死体がさらされた丘

(遠くヨルダンが見えます)

 

帰国後、主人と地図をみていると、ベトシャンは本当に栄えた町だったのだとわかります。エルサレムやサマリヤ方面、ガリラヤやダマスコ方面に向かう道がこの町に集中しています。イエス様もおそらく、ガリラヤ方面からエルサレムに行くときは必ず通られたのではないかと思います。

サウル王の遺体を引き取るところのいろいろな話もすごく興味深くてメモってあるのですが、ゲラサの話をたくさん書いたので、そちらはまたいつかってことで…。

 

 

ヨルダン川西岸地区を横目にみながら、一向エルサレムに向かいます。

 

ツアー最終日が静かに幕を下ろそうとしていました。

お宿の猫ちゃん。

イスラエル旅行記⑩ レバノン国境、シリア国境、ピリポカイザリヤ地域

イスラエル旅行記シリーズ、10まで来ました。

 

「もう一息だぞ!頑張って書き切ろう!」という前向きな思いと、「書き終わったらイスラエル旅行が本当に終わってしまうよ〜😢」という寂しさが入り混じっています。

この日はガリラヤ湖からさらに北方面にバスで移動しました。

レバノンとの国境まで来ました。

国境っていうから、フェンスがあったり、役所的な機関や建物があるのかと思っていたのですが、

案外、ざっくりな感じで「あのトラックが通っている道はレバノンです」みたいな。

この日は晴れていたのですが、遠くの村をよくよく見ると、レバノンの国旗が立っていました。

またまた昔の話ですが、2002年に韓国と北朝鮮の国境付近を訪問した機会があったのですが、その時はそこいら中、「地雷、危険」って書いてあったのね。こう、危険感が空気にこもっていて、ピリピリしていました。一髪触発の緊張感があったのよ。

 

なので、こちらの国境線はそういう感じではなくて、ちょっと拍子抜けというか、なんというか。

 

うん、ゆる〜いね。

 

 

こちらでも、イスラエルの地図を使って、イスラエルの歴史について教えてもらいました。

 

ここ数日、アメリカ大使館がエルサレムに移ったことの反対デモやガザ地区に置けるパレスチナ問題が盛んにニュースになっていますね。イスラエル旅行がなければ、「あ、そう。」とか「アメリカ、何やってんの?」くらいにしか感じなかったかもしれません。(今は、違います。)

 

ここではざっくりと話すのですが、パレスチナという言葉というのは、ユダヤ人の彼らにとっては突然降って湧いてきた言葉な感じに聞こえるそうです。歴史的に遡り、紐解いていっても、ユダという地区については、=ユダヤ人の地域としての認識があり、頭の中で地域と民族が繋がる言葉なのですが、対してパレスチナということばはローマ帝国の作った言葉であって、ペリシテが語源となっています。ペリシテは地域の名前であり、人種的にはギリシャ人が祖先です。つまり、アラブでも、ユダヤでもないのだそうです。

19世紀までは、国というメンタリティーもなく、構想的はユダヤVSアラブって感じで、ユダヤ民族、アラブ民族の誇りはあるけれど、パレスティナ人の誇りとかそういうものはなかったそうなんですね。

しかし、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、ベトウィン(アラブ)を守るためにレバノン、イラク、ヨルダンと国々が次々に作られてしまい、国連の仲介はあるものの、いろいろユダヤ人としては我慢しなければならないことになっていると…。

 

これ以上は、ガイドさんの個人的な意見とか、ここに書くと政治的な話になりすぎてしまうので、やめておきますが、ニュースだけでは分からない、国内の生きている人間の意見にも耳を傾けることはとても大切だと思います。

 

ユダヤ人として残念で祈っているのは、レバノンはクリスチャンの国だったのに、そこから変わってしまったことだそうです。ニュースの報道では、イスラエルが攻撃すると、赤ん坊や病院を攻撃したと批判されるそうですが、それはアラブ人の戦略で、彼らは人間を盾にする戦略なのだそうです。わざと武器庫を学校や病院に作るそうなのです。

 

本当にイエス様の介入がないといけないですね。そしてユダヤ人の神への立ち返りを心から祈ります。

 

ツアーのみんなで祈る時間を持ち、そこから、テル・ダンへ

この日も暑ぅぅい1日でした。(注 3月下旬です)

水が綺麗な場所です。ヘルモン山からの雪解け水が、石灰石・玄武岩のフィルターを通して濾過され、イスラエルの飲み水となっているそうです。こちら、この水がガリラヤ湖へ流れます。

ダンは王国分裂後、ヤロブアムによって王国の中心となった場所です。

残念なことにこちらで偶像礼拝を献げ、イスラエル王国は衰退してしまします。

この大きな木は、イスラエルの歴史をたくさんみて来たのでしょうね。

イスラエルは神様に選ばれた民族であるにも関わらず、自ら神を捨てました。私も、今、クリスチャンとして接ぎ木されているものですが、イスラエルさえ切り捨てた神様は、私なんぞいとも簡単に折ってしまうことなど可能です。ですが、神様はそれでも見捨てずにいてくださる。なんと、神様の愛は深いのでしょうか?

イスラエルの失敗の歴史から、主権とは何か?自分は何者なのか?がますますクローズアップされるような気持ちになります。

 

そして、ダンといえばアブラハムがロトの敵を追って来た場所でもあります。

こちら、まさにアブラハムの時代の遺跡だそうです。

石でできているからでしょうか?未だに残っています。

やはり、歴史大好き人間である主人は、紀元前4000年の遺跡とあっては写真をとらずにはいられません。

 

アブラハム時代にタイムスリップできるなんて、感動でしかないです。

 

そして、こちらも、古代の門。

ガイドさんか、イスラエル文化にとって門の大切さを語ってくれました。

門は交流場所、情報をもらう場所、とっても重要な場所でした。それぞれの街で何が起こっているのか、他の場所で何が起こっているのか、知ることができるのが門でした。ダビデも戦場の勝敗の知らせを門で待ってましたし、ルツとボアズの結婚の儀式も門でしたね。

 

***************************

 

そして、またそんなに遠くなところのピリポ・カイザリアへ。

 

ピリポカイザリアはイエス様が公生涯の最後の方で伝道していた場所でもあります。エルサレムやガリラヤ湖周辺では、イエス様を捕らえたい雰囲気が高まる中で、こちらの方で弟子たちと最後の時間を過ごしたのでは?と推測されます。

ピリポカイザリアは自然も豊かでのんびりとした田舎な感じです。と同時にローマの戦略的都市でもあった(他国との貿易などにおいて)ので、人も多くいたそうです。イエス様がそのような中で神様の思いを伝え、弟子訓練されたのだなと思うと親近感が湧きます。

写真の裏側にはハデスの門と呼ばれる遺跡があります。

マタイ16:18-19
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。

イエス様は、この直前に、こちらで、ペテロと大切な会話をしますね。

マタイ16:13-16
さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

この時のペテロは大胆な信仰告白に至りました。この後、ペテロは失敗してしまいますが、でも、ここでのイエス様の会話は、ペテロには忘れられないものだったと思います。まさにあれは聖霊が話させてくれたものだとのちにはっきりしたことでしょうね。

 

イエス様は、みんな裏切るとわかっていて、それでも、ペテロを励まし、育てることを諦めませんでした。イエス様、愛が深すぎです。

 

その後、少し山の方へバスで移動、変貌山付近の場所です。

イエス様は、ここに特別な3人の弟子だけを連れてきました。たしかにここは山深く、静かな場所です。

イエス様は人がたくさんいるところ、異邦人がいるところ、構わずに出かけましたが、ひっそりと静まることもされました。

イエス様はピリポカイザリやに入って1週間ほどでこちらを訪れたとされています。十字架にかけられることを知っていたイエス様はモーセ(=100万人の人と40年も荒野で生活しなければならなかったリーダーで約束の地を前にして死んでしまった)やエリヤから励ましを受けたのでしょうか?人として助けや励ましを求めるイエス様の姿に謙遜を感じます。

こちら、十字軍から守るためのアラブ系の要塞。誰がどのようにということは忘れてしまったのですが、9世紀ごろから残されているそうです。

断崖絶壁にたてられた要塞。

よく、私たちもエリヤハウスなんかで「心の要塞」なんて心の状態を表現しますね。実際に要塞をに入り、その入り組んだ構造をみて、姉妹たちと「実際にこうやって見ると、要塞って崩すのに時間がかかりそうね。」「イエス様も私たちの心の要塞を神様のパーフェクトなタイミングで崩してくれるんだね」と話をしながら後にしました。

そんな要塞の中での写真をパチリ。

 

****************************

 

そしてこの日の最後は、シリアとの国境まで行きました。ゴラン高原です。

ここは 涙の谷 (Tear of Valley)と呼ばれている場所です。

 

この日は過越の祭りの休暇が始まっており、学校がおやすみとのことで子供達や家族づれがたくさんいました。

 

こちらでは、1973年の6日間戦争について話を聞きました。実際、こちらはその時の戦場で、戦死者を記念しての公園となっていました。

子供達が戦車で遊んでいますが、これも、大切な教材だそうです。

 

 

この6日間戦争はまさかの不意打ちの戦争で、シリアとエジプトによる突然の攻撃だったそうです。結果的には勝利をおさめ、国土も守られたのですが、非常にショッキングな出来事で、彼らに与えられたインパクトが強かったそうです。

 

安息日にガイドしてくださったアリエ先生も戦争には参戦したそうです。

 

その時ガイドしてくださったツリエル先生は、私たちが高慢になって神をないがしろにしたので、このように打撃を受けたのだと懇々と話してくださいました。

 

今の時代、色々ハイテクで、私たちが知れる情報も多くなってきている時代において、神様なんか忘れがちですが、そのような人間的な戦略の背後に神様がおられることを語ってくださったツリエルさんだったのでした。

今、個人的には歴代誌を読んでいます。そして「ここに書かれていることを、昔話と思わずに現代に置き換えて考えることのできる信仰を私にもください」といつも祈っています。

イスラエルに行くと、現実のことと聖書に書かれていることを一つにして捉えることができるのが、不思議です。

 

イスラエルマジックですね。

 

 

ちなみに、この場所、日本の外務省のホームページでは行かないようにと書かれているらしい(笑)です。

 

イスラエル旅行記⑨  ガリラヤ湖周辺

こんばんワニ!🐊

久しぶりのイスラエル旅行記です。なかなか終わりませんが、もう数日続きま〜す。お付き合い、よろしくお願いします。

前日、エルサレムから移動し、ガリラヤ湖畔のホテルに到着しました〜。

これから数日、ガリラヤ湖やイスラエル北部を旅します。

 

この日は前日の長い移動もあったため、ガリラヤ湖畔をぐるぐる回るコース(=つまり移動時間が短い軽め)の日でした。

 

こちら、山上の垂訓の丘です。

前にも書きましたが、四国ほどしかないイスラエルという国は南北で気候が全然違うのですね。

南は砂漠ですが、北は緑が生い茂っているとても美しい季節のイスラエルです。

向う側にガリラヤ湖を見下しながら、自然いっぱいの丘の上を歩き、イエス様の教えを思い起こす時間をとりました。

きれいなお花たち。

山上の垂訓(マタイ5章から7章)は個人的に思い出のある聖書箇所です。

その箇所を聖書を片手に読みながら、湖に向かって歩きました。

イエス様の声が聞こえそうな気がしました。その時の情景を肌で感じ、においや温度も、5つの感覚すべてを使って取り込みたい気分でした。最高に贅沢な時間でした。

娘の名前の由来になった「野の百合」(ルカでは野の花)はありませんでしたが、そこら中に花が咲いていて、イエス様はこんな野の花をみて、慈しみを感じ、かわいらしいと感じ、そして、愛でられたんじゃないかと感じ、私も同じ気持ちになりたいと思いました。

 

ゆるゆる歩きながら、湖の岸辺へ。

ここは、ヨハネの福音書21節でペテロが復活のイエス様に個人的に出会い、話をし、そして「愛しますか?」「愛します。」「私の羊を飼いなさい」と三度やりとりをした場所です。

 

イエス様を3度裏切ったペテロ。そして、和解をする間もなくイエスさまは死なれました。その時のペテロの心情はどうでしょうか?思いめぐらす貴重な時間となりました。

個人的なことですが、私は次女を出産後、自分の容体が急変し死の淵をさまよった経験があります。そしてその時私が主人と最後にした会話は

「愛してるよ」とか「ありがとう」といった相手を思いやる言葉ではなく(笑)

「お父さんとお母さんに娘の誕生を知らせておいてね」

「子供たちの保育園の迎え(当時はホームスクールしてなかったの)、よろしくね」

といっためっちゃ事務的な会話で、私の容体が安定し、主人ともう一度再会した時に涙を流して喜びあったのですが、

最期の会話があんなにならなくて本当に良かった

 

と心底安心したのを覚えています。

 

湖畔では、その時の自分の気持ちにペテロの気持ちを重ねてみたりもしました。ペテロも「あの場面でイエス様との関係を終わらせたくない」というそんな気持ちだったのかな?と思いました。

個人的な見解ですが、まさかイエス様(=メシアで王、生ける神キリスト)があんなに簡単に十字架で死なれるとは思いもしなかったのかもしれませんよね。

思えば弟子たちはイエス様が復活するまで、「死んで三日ののちによみがえる」という預言を思い出せないでいましたし、死ななければならないという預言を聞かされた時も、ペテロは全力でそのことを否定して、イエス様に怒られていました。

 

そんな失敗だらけのペテロの人生でしたが、ヨハネ21章のイエス様の様子は本当に優しくて、優しくて、まさにこれこそ神対応(神なんだけれどさ)ですよね。なるほど、ペテロがその後大胆に証しをする者に、別人のごとく変えられたのがわかります。赦しを経験した人は強いですね。

ガリラヤ湖は水もきれいで、魚がすぐそばをたくさん泳いでいました。(写真だと見にくいですが…)

 

この日も通訳を頑張る我が夫君。

カペナウムにも行きました。

こちら、カペナウムの会堂跡です。

カペナウムに来てから、はっと気づいたのですが、ここはマルコ2章に出てくる場所でした。

中風の人が4人の友人に連れられて、イエス様のおられる会堂に来るものの入れず、屋根をはがしてイエス様の前に釣り降ろされるというあの箇所です。

またまた個人的な話なのですが、この聖書箇所も個人的な思い出がありまして。まぁ、本当に個人的なので「そんなに興奮する?」って思われても仕方がないのですが、私が非言語な息子をどう教育したらいいのか分からなくて困っていた時に、このみ言葉を神様から与えられて、それで、息子とホームスクールする目的と元気をもらえたんです。ある意味、ここは私のホームスクールをする理由の原点でもあります。

 

まさか、この場所がツアー日程に入っているとは思ってなかったので、密かに一人、

感動に浸り

写真を撮りまくりました。

 

そしてこちら、ペテロの家の後です。会堂と隣り合わせで、今は教会がたっています。

教会の床がガラスになっていて、遺跡が見られます。

 

その後、おいしいランチを頂いて…

 

こんどは近くのマグダラへ

こちらのマグダラの遺跡は、カトリック教会が母体となって遺跡を掘り起こし、保存やいろいろな建物を建てていました。(ガリラヤ湖畔です)

そして、こちらの遺跡、なによりも1世紀の遺跡ということで、「実際にイエス様がおられたものだと思う」とガイドさんも興奮気味に話していました。

 

というのも、西暦70年、ローマによって神殿が破壊された後に建てられた会堂は(カペナウムのものもそうだったそうですが)神殿の方向に向かって建築されているそうなのですね。ですが、こちらは1世紀のものでおそらく70年前に建てられたと思われていて、その理由として建築物の設計上、神殿の方向とはあさっての方向に建てられているとのこと。そのような理由からもイエス様の活動時代の遺跡と断定できる貴重な遺跡となっているそうです。

ところどころで、まだまだ遺跡調査がされておりました。

写真の右の円柱の石の前の四角い石(奥)をよく見ると、石の両端にくぼみがあるのがわかりますか?おそらく、この石は机で、巻物の旧約聖書を読むのに使われた、もしくは写本するのに使われたと考えられているそうです。

 

 

さて、マグダラに建てられていた新しいカトリック教会は、説教台を含む前方部分が船の形になっていて、後ろがガラス張りのため湖が見えるのですね。そして、説教者がそこに立つとガリラヤ湖に浮かぶ船からメッセージをされているように見える設計になっていました。すごくモダンでおしゃれでした。

 

その後、ガリラヤ湖の遊覧船に乗りました。

ボートの操縦士さんもクリスチャンの方で、自分の船でワーシップミュージックをかけて、歌うのが喜びと話していました

証しを聞いた後、軽快な音楽が流れて、みんなで大きな輪になりました。

湖の真ん中で歌ったり、踊ったり、楽しいひと時を過ごしました。

この時、20代の若い世代チームはわーわー喜んでいたのですが、60代70代世代チームは(メシアニックジューの皆さんの証しや自分がイスラエルにいることに感動して)涙が止まらなくて泣きながら踊っていたそうで、ある姉妹が聖書のみ言葉に照らし合わせてすごく預言的な時間だったと証してくださいました。

 

この日は夕方にたくさん時間があり、

主人とガリラヤ湖に行き、すこし水につかってきました。

私は早々に上がりましたが、主人は他の教会の皆さんと一緒におしゃべりしながら泳いでいました。

この日も30度に近い暑さだったので、気持ちよかったです。

 

続きます。

 

イスラエル旅行記⑧  カイザリヤよりガリラヤ地方へ

イスラエル旅行から帰って来て1ヶ月が経ってしまいました。早いようなゆっくりなような、また行きたいような、余韻に浸っていたいような。そんな気分の最近です。

 

 

久しぶりの旅行記の続きです。

この日はイスラエルに来て1週間がたち、この日を境に旅も後半に入りました。いよいよガリラヤ地方に入ります。

この日は前日の雨によって、サウジからの砂漠の砂も落ち、澄み渡った空の快晴でした。

バスで一行、カイザリヤへ。

再び、地中海。絵葉書のような光景です。ちなみに携帯電話で撮ってこのクオリティー、肉眼でみると本当に綺麗なのです。

 

みんな遠足気分です。(この日は主人が通訳の日)

カイザリヤはローマの街です。ローマの匂いが遺跡からプンプンする街です。そして、遺跡がこんな風に↓普通に転がっています。イスラエルにいると遺跡の上に座っちゃったり、触っちゃったりするので、ありがたいのだけれど、普通の石のような感覚にもなります。

私たちは聖書を読み、その内容を信じているので、ポンテオピラトが実在した人物なのか、ユダという地域が本当にあったのかということに疑う余地もないのですが、イスラエルは色々な宗教が入り乱れているお土地柄、そのようなことを証明する遺跡はとても意味深いとのことを聞きました。

 

そして、今もまだこの地方の発掘作業は続いているとのことで、近年、ポンテオピラトという名前が刻まれた石碑がみつかったとのことでした。そしてそこにはポンテオピラトがどの地方を監督していたのかということも書かれており、ユダという地名が刻まれていたとのことでした。この石碑は非常に歴史的価値のあるものとして認められたそうです。

 

ローマ兵の街ですから、劇場やコロシアムがあり、グラディエーターの文化もあったそうです。70年のイスラエルの抵抗時に捕まえられたユダヤ人が、グラティエーターの見世物となって殺されたり、色々あったようです。(この歴史をユダヤ人のクリスチャンのガイドさんから聞くのが胸が痛いです)

 

このようにイスラエルの戦争の歴史を聞くと本当に心が苦しいのですが、カイザリヤの場所は本当に景色が綺麗で、

心地よい場所です。そしてここで食べたアイスクリームがイスラエルで一番美味しかった。

 

その後、バスでさらに北へ移動、カルメル山へ行きました。こちら、エリヤの時代ですね。

 

 

エリヤが雨を祈り、弟子が海の向こう側に雲をみたという景色はこんな景色だったのかしら?と思いを馳せることができました。

向こうが地中海です。

2日前に訪れた南の砂漠地域とは全く違う風景です。こんなに緑が豊かで、四国ほどの面積のイスラエルですが、南と北では景色が違います。

 

そして、ランチののち、さらに東へ移動、メギドへ。

メギドはまた、黙示録で「アルマゲドン」と呼ばれる場所です。

メギドでは旧約聖書に何回かでてくる土地です。そしてまた、黙示録にも書かれている場所でもあります。

私なんか、大きな戦いってあると「嫌だな」とか「そうやって死にたくないな」とか自己中にも思うのですが、イスラエルに住んでいる私たちのガイドさんは淡々と「いつかわからないけれど、そうなったら戦う運命」という一つの覚悟のようなもの持っておられるなと感じるような態度で私たちにわかりやすく説明してくださいました。そしてその戦いはイエス様の再臨に繋がるのだから、喜ばしいことなんだと語っておられ、自分が生き延びるとかそいういったレベルではなく、御国全体を考えての兵士としての考えをお持ちなんだと心打たれました。イスラエル人であるということは、本当に祝福であると同時に、聖書の運命と共に生きるということでもあるのだなと個人的に思いました。

こちら、昔の地下要塞になっていて、地下通路がありまいた。

かなりくらい道。歴史大好きパパが隊長兼斥候になり、みんなを導いてくれました。

 

 

イスラエル旅行記⑦  Shabbat Sharom

イスラエルで安息日を過ごしました。いよいよ過越しのシーズンを間近にイスラエルは学校が休みになったりしていたようです。

 

私たちの宿泊していたヤドハシュモナという場所はキブツと呼ばれる共同体の村でした。イスラエルで唯一の「クリスチャンのキブツ」だそうです。そちらに住んでおられる方と一緒に安息日の礼拝を守りました。

この日はヨハネの福音書からのメッセージでした。

メインの言葉はヘブル語、そして同時通訳の英語がありました。

おそらくですが、100名〜150名くらいは入れる会堂と思われます。

 

そして、昼ご飯の後にホテル内のBiblical Gardenと呼ばれる、聖書の中に描かれている建物や文化について学んだり、ユダヤの歴史について学ぶ時間がありました。これもツアーの一部です。

 

この日はイスラエルに来て初めて雨が降った日で、とても寒かったのですが、雨は霧雨のようで、とても柔らかい雨を体験しました。

古い子供の賛美

Mercy is falling, is falling, is falling. Mercy it falls like the sweet spring rain
Mercy is falling, is falling all over me

を思い出しました。本当にしっとりとした、優しい雨でした。神様の憐れみはこのようなのだと感じることができました。

 

こちらがお庭の入り口です。

この村の名前であるヤドハシュモナは二つの言葉から成り立っています。YAD(ヤド)とHASHMONA(ハシュモナ)です。ヤドは「記念する」という意味で、ハッシュモナは「(数字の)8」という意味だそうです。

フィンランド系ユダヤ人でホロコーストで召された方々を記念するためにこの名前にしたそうです。

 

いつもはツリエル(私たちの間ではツリちゃんと読んでいました)さんというガイドさんが私たちを案内してくださいましたが、今回はその叔父さんであるアリエ先生が私たちを案内してくださいました。アリエさんは70過ぎのおじいさまですが、とってもお元気な方です。

 

ご家族がどのようにイスラエルに来て、そして今のような生活を選ばれたのかをお話してくださいました。

お父様はユダヤ人でフィンランド人でもありました。第二次世界大戦の体験者でもあります。ナチスに捕らえられた時、フィンランド政府はユダヤ人を守ってはくれなかったそうです。そうして、強制収容所に送られて過ごすわけです。その後、解放されましたが、自分を守ってくれなかったフィンランドには戻らず(精神的にも自分を売ったコミュニティーには戻れないですよね…)、イスラエルを目指したそうです。しかしすぐにはイスラエルに入国はできず、ギリシャの難民キャンプで過ごした後、やっとのことでイスラエルに住めたとのことでした。お父様は天に召されるほんの数年前まで厳格なユダヤ教徒だったそうです。

一方、アリエさんはイスラエルでミュージシャンとして活躍していたようです。お母様が信仰を持っておいでで、お母様の祈りとまた生活を通しての訓練をもって、信仰をもつようになりクリスチャンとなったとのことです。当時、イスラエルではメシアニックジュー(ユダヤ人クリスチャン)がすごく少なく大変苦労もあったようです。そんな中、神様からの召しでキブツを作ることを示され、ミュージシャンとしての大きな収入を投げ打ってこの場所を購入したと話しておられました。その時フィンランド政府も第二次世界大戦時にユダヤ人に対して何もしなかったことをお詫びし、村づくりを助けてくれたそうです。奇跡の連続でできた村なのだと、神様の力強い導きを感じられずに入られませんでした。

 

こうして、家族はキブツに住むようになり、ホテル経営をしながら、そしてツアーガイドをしながら、ざっくりですが今に至っているとのことでした。

お父様は在命中は戦争時の話しはほとんどされなかったのですが、お亡くなりになる10年ほど前に、子供3人をつれてポーランドへ行き、心の悲しみをすべて吐き出すことができたそうです。そして、赦すことを選ぶことができ、クリスチャンになったと聞きました。

 

このようにツアーガイドさんから直に、ホロコーストやイスラエルの戦争の歴史を聞くとは思わなかったので、驚きと共に、非常に大きな体験になりました。

(熱心にアリエさんの証しに聞き入る私たち)

 

このバイブルガーデンで作られているものはレプリカですが、ところどころ本物の遺跡もあります。

 

そしてこちらはヨエル書2章13節のみことばを銅像にしたものです。

あなたがたの着物ではなく、あなた方の心をひきさけ。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かで災いを思い直してくださる。

この心を引き裂くという言葉が、ユダヤ人の心に響くのだと話してくださいました。観光業をしていますが、一番の思いは同族民であるユダヤ人の救いなのですね。

 

ガーデンの中は、このようにお花やハーブでいっぱいです。

そしてこの一つ一つの花にユダヤ人ならではの言い伝えがあり、聖書にからめて子供達に教訓を教えると話していました。

キブツ(共同体)で暮らす子供達やクリスチャンの子供達に、鳥や植物という自然の教科書からみことばを教えるのが大好きだと語るアリエ先生の目が輝いていました。

 

幕屋の作りについても、幕屋とユダヤ人の普通の家の作り方と似ていて、神様はちゃんとユダヤの文化を理解してわかるように幕屋を設計しているとか、清めのお風呂では神様の愛の本質と律法主義の違いについて語ってくださりました。

こちらには1世紀のお墓があり、ユダヤの埋葬の文化も語ってくださいました。

ユダヤは争いの歴史で、先祖の墓に入るということは祝福されているという意味だそうです。聖書の表現の中で、「父のもとへ帰る」ということは、墓に一緒に葬られるというこの上ない賞賛の言葉であるということを聞きました。一行にも満たない聖書の言葉に、大きな意味があることをしれて、これからは聖書を読むのがとても楽しくなりそうです。

 

本当に写真も取れないくらいにたくさんの知識を分かち合ってくださって、自分の個人のノートはもうぎっしりなんですが、こちらにはこれくらいにしておきます。

 

イスラエルからもどり、1ヶ月がたってしまいました。

後半の旅もぼちぼち書いて行きますね。

イスラエル旅行記⑥ マサダと死海

3日間、エルサレム周辺で過ごした次の日は、クムラン、マサダ、死海方面へ南下しました。

クムランまでの道のりの途中、ベトシャンの人たちが羊を飼っている様子がバスから見えました。

彼らはパレスティナ地区の人々です。

エルサレムから少し下っただけで、このような砂漠地帯になります。ここはよきサマリヤ人のたとえ話の場所です。見渡す限り何もないような荒れ地です。こんなところで半殺しになったら、日中は暑いし、夜は寒いしで肉体的な辛さもありながら、見通しもよく、おそらく遠くから祭司やパリサイ人が歩いて来るのを遠目で確認できたと思います。きっと助けてくれると思った同志に裏切られる、遠くから見えるからこそ期待して裏切られる気持ち、実際にこの地に立つとそのような背景を読み取ることができます。

まだ朝の早い時間ですので、涼しいですが、この日はとても暑かった一日でした。

 

その後、さらに南下していきます。風景もこのように砂漠、赤茶けた色が一面の景色です。

 

バスの中でツアーガイドさんが話してくれたのですが、おそらくダビデが羊を飼っていただろう周辺の荒野の山は遠くから見ると縞模様のように見えます。

その縞々ひとつひとつが細い道になり、円状(らせん状)に山を取り巻いています。羊は山の上に向かって坂を上ることができないそうで(山羊はできますが…)、羊は草を求めながらぐるぐるとゆっくり道に沿ってらせん状に山を登るそうです。そしてこれがダビデが詩編23篇で歌っている「義の道に導く」ということなんだよと教えてくれました。

らせん状だからさっきの場所からほんのちょっとしか上ってないのに時間がかかるんです。でもそれが神様の方法なんだと思ったときに、神様の忍耐と愛と感じました。山羊のように登ったら羊は死んでしまうので、私も神様のタイミングで生きればいいのだとすごく感じました。

 

さぁ、だんだん荒野って感じがでてきました。ラクダもいます。

 

そしてクムランです。

↑ こちらはレプリカです。どのように死海文書の発見されたか展示されています。20世紀の最大の遺跡と呼ばれる死海文書。このようにツボの中に入っていたそうです。

 

当時、「光の子」として共同体生活をし、腐敗したエルサレムの指導者たちを「闇の子」と区別していたクムランの共同体の人々。独自のユニークな文化を持ち、律法を全うしたといわれています。本当かわかりませんが、バプテスマのヨハネももしかしたら関わっていたかもしれないとのことです。

↑ このような崖に洞穴があり、そこにツボに入れられた旧約聖書の巻物が隠されていました。

もと歴史学科の主人は大興奮の一日でした。

山がありながらも海抜が低い南の地域はエルサレムから流れる雨水を貯蓄する技術をもっていました。このような砂漠の山の上でも、生活ができたのですね。

一日に清めのお風呂に何回か入るクムランの人々のお風呂です。

伝統を固く守っていたのですね。

 

そして、その後、さらに南下してマサダへ。

ロープウェイにのって一気に頂上まで行きます。要塞です。

こちらはヘロデ大王が別荘のため、またエジプトやサウジ方面からの攻撃に備えるために作られた要塞です。

イスラエルでは、遺跡だった場所とその後新たに作られたところの区別がこのように黒い線で示されています。

こちらもレプリカですが、このように崖を利用したつくりになっており、たくさんの食料貯蔵庫があったそうです。ですから、AD70年のユダヤ人の反抗の時、ここで最後の最後まで抵抗したそうです。

当時、ローマ軍隊が基地を作った場所が遺跡として残されています。取り囲むようにローマ兵がいたことが上からみるとわかります。

 

結局、残されたユダヤ人は他殺形式の自殺行為をすることにより、ローマ兵に手を下される前に自分たちで命を絶ってしまいます。わずか、洞窟で2人の女性と子供たちだけが生き残り、どのようにユダヤ人が最後を遂げたのかを伝承したもようです。

 

 

その後、ロープウェイで降り、エンゲディに向かいました。

ちょっとしたオアシスになっています。シカのような生き物が木陰にいるのがわかるかな?

ここは、ダビデがサウル王から逃げた場所で、サウル王と洞穴でニアミスしたときに手をかけずに衣のすそを切ったというその場所です。

なぜ、洞穴に入ったのか、トイレだったのか?という説もありますが、ヘブル語ではトイレとは書いてなく、足を休めたという意味だそうで、足を洗ったりする中にトイレがあったのか、それとも昼寝だったのかもしれないそうです。

この日は気温が30度に迫る暑さで、子供たちはみな、滝の水で水浴びをして楽しんでいました。

 

ダビデの神様を恐れる思い、またダビデはエルサレムで王様になるまでに26年待たなければなりませんでした。その間、ダビデの品性が練られたこと、これは無意味ではないということをみなで語り合いました。この苦しい中でダビデは詩編を書き、神様への想いと信仰を深めたことを考えると、私の辛抱のなさを感じます。もし、ゴリアテを倒した後すぐにダビデが王様になっていたとして、ダビデが同じ成熟さを持っていたかということは疑問ですよね。

 

そして死海へ。

 

ちょっと浮いてきました。この死海で泥を体に塗って、それでみんなではしゃいだ時間は本当に童心に帰った楽しいひと時でした。

 

死海に入ると10年若返るというので、30代に戻ったかしら?

 

続く。

 

イスラエル旅行記⑤ エルサレム近郊

エルサレム3日目。どこにいてもミモザがとってもきれいなイスラエルでした。

 

この日の午前は二つの博物館をめぐりました。

1つは

こちら。第二神殿の模型がある博物館です。ここには死海文書についても勉強することができました。

 

第二神殿(バビロン捕囚から帰ってきてからの神殿)時代のエルサレムの城壁とその町が歴史的資料を参考に作られています。

神殿の入り口も出口と入り口の様子やユダヤ人だけしか入れない領域の区分されているところにいたってもよく作られていました。

 

室内の博物館に入ると、死海文書についての説明書きや建国70周年を祝っての特別展示もあり、初公開の創世記の書写をみることができました。

 

そして、少し移動したのちの、ホロコーストミュージーアム

こちらはユダヤ人目線でドイツがどれだけのことをしようとしたのかを展示してあります。

もちろん中は写真は不可ですが、なんといいますか、酷いという言葉も出ないほどの悲しみに包まれた時でした。

美術館を出た後の私たち。あまりの衝撃にみんな言葉を話したいとも思えない状況。

 

ユダヤ人というだけで、突然、おとなりさんが、お友達が敵となってしまう苦しみ。そして、ユダヤ人というだけで虫けら以下の扱いを受け、そして、解放されても帰る家もない。自分を秘密警察に密告した人とどうして一緒にまた生活できるでしょうか?

 

このようにユダヤ人は二重にも、三重にも自分たちのアイデンティティーを奪われ、自由を奪われてしまったのだということに言葉も出ない衝撃が走りました。

 

私はあまりにユダヤの国について知らなさすぎると思いました。

 

さて、あまりに暗くなってしまったので、ちょっと明るい話題。

ここにきてですが、イスラエルのランチ、すごく美味しかったです。

 

私はお腹の調子のこともあったので、なるべく食べ過ぎないように、野菜中心の生活をしていました。こちらはサラダ。

 

朝も夜もビュッフェですが、豆料理も多かったです。

 

午後はエラの谷に行きました。ダビデとゴリアテが戦った場所です。

川はありませんでしたが、みんなで小石を拾ってお土産にしました。

これは私がとった男性の写真の一部ですが、私たちの教会のダビデがこんなにもいると思うと、すごく感謝の気持ちが湧いてきたそんな一枚です。

 

そして、夕方にむけて、エマオの途上の道へ、

まぁ普通の道といったらそうなのですが、イスラエルの方はキャンプやバーベキューをしているようなとっても自然豊かな場所でした。

エルサレムまで11キロ。1日かけて歩いてきた弟子の二人は、イエス様と気づきません。ですが、パンを割いた時、おそらく手に釘の穴を見たでしょうか?はっとイエス様だと気づくのです。

そして、1日歩いた距離を今度は走って引き返します。彼らの心は喜びで高揚していたでしょう。早く、エルサレムの弟子に伝えたいと思ったでしょう。

そんなワクワク感、スリリング感が感じられる瞬間でした。私も、伝道する気持ちの時にことのワクワク感をずっと持っていたいと思いました。

 

 

というわけで、3日間のエルサレム周辺の旅は終わります。

 

次の日は砂漠方面です。また書きまーす

 

エルサレム旅行記④ エルサレム(旧市街)

エルサレムでのツアー二日目の最初は『園の墓』から始まりました。

イギリスの宣教団体が管理しているこの場所は、エルサレムの中で(プロテスタント信仰の)福音が自由に語ることができる数少ない場所です。

お花畑のようなとてもきれいな公園を歩いている感じです。

最初にどくろの場所と呼ばれたゴルゴダの場所が見えるところへ案内されました。数年前に崖の石の劣化によって「鼻」の位置の石が欠けてしまったため、どくろに見にくくなってしまったのですが、くぼみを目とすると骸骨に見えます。

 

イエス様、こちらで十字架にかけられたかも?との説です。

 

そして、こちら、お墓です。

お墓の内部には、初代クリスチャンがよく使っていたサインのような記号のようなものがあり、そのことからも1世紀のクリスチャンのお墓か、もしくは地理的なことからもイエス様のお墓だったかもという説が濃厚なのだそうです。

 

イスラエルの城壁内には聖墳墓教会というもう一つのイエス様のお墓かもという場所があります。

 

ですが、大切なのは墓が空ということと、心で何を信じるのか?ということだと思います。

 

↑ このような標語があちこちに見えます。

園の墓の敷地内の建物の中で、聖餐式をしました。

イースターをまもなく迎えるそんな季節でしたし、先日にゲッセマネやカヤパの家などを見て、すごく霊的にも敏感だったと思うのですが、本当に復活されたイエス様のことを深く思うことができました。

 

園の墓は城壁の外側でしたので、いよいよ歩いて、城壁内へ入ります

 

こちら、ダマスコ門です。下の方に見えるもう一つの門、こちらが古い門です。なんども立てたり壊されたり、地層的にも現在は少し上がっているのですね。

 

そして、イスラム地区から入りました。

こちら、ビアドロローザ=イエス様が十字架を背負って最後歩かれた道かもというところです。

入ることができませんが、すごく厳重な警備のもと、イスラムのモスクがあります。このようなものを見ると、エルサレムには常に霊的な戦いがあるのだと感じます。

イスラム地区を歩くときは少し緊張感を覚えたのですが、イスラム地区内にもキリスト教系の遺跡や教会があり、ゲートがあって、少し雰囲気が変わります。ちょっと一安心する。

↑ こちらはベテスダの池です。この脇に階段があり、降りていくと水があります。38年間、この池の脇に座っていた男がイエス様に癒された場所です。

イスラム地区から一度、城壁外へ出てゆきます。こちらはイスラム系の人のお墓があります。そして向こうにはオリーブ山が。

こちら、金門(Golden Gate)です。

 

 

ぐるりと城壁の近くを回り、再び城壁内へ。嘆きの壁に行き、私も少し祈りました。

ランチの後、ユダヤ人地区へ。

大きなメノラーのある広場でイスラエルの歴史について教えてもらいます。まだ本格的なツアーが始まったばかりで今思い返すと、ユダヤ人がどれだけ誤解され続けてきたのかその思いの半分くらいしかわからなかったかもしれません。でも、本来はすべてユダヤ人のものだったにも関わらず、このように繰り返された戦争によって今のような状況になってしまったこと、ここが本当の意味でイスラエルになるにはイエス様の再臨の力なくしてはできないのだと痛感しました。

 

こちらはカルドと呼ばれる大路です。こちらはローマ帝国の遺跡で南北に道が通っています。ユダヤの歴史と文化では、方角はいつも東が中心だそうです。つまり今の私たちの方位磁石や地図の書き方は北が軸になっているのはユダヤの文化では違うということです。東が軸となって設計されているエルサレムの町なのに、そこに無理やり南北の軸のローマ文化が入ってきたことは、ユダヤの人たちにとっては屈辱的なものであるそうなのですね。また、ローマの大路は、道路、歩道、店舗としっかり区画がされており、ローマの当時の華々しさを感じるとともに、ローマはどこにいってもローマ式を通したという残忍さも感じさせる、意味深い場所にも思いました。

エルサレムの一番古い地図。

遺跡なんだけれど、ふつうに生活道路でもある不思議な場所、エルサレムです。

 

クリスチャン地区の近くに、新しい遺跡が出てきたとのことでこちら、ヒゼキヤ時代の内部の城壁だったと思われるとのことです。作業が続いているようでした。

 

午前中のようなピリピリした感じがない、クリスチャン地区です。

聖墳墓教会です。こちらもイエス様復活の場所ともいわれています。

4世紀ごろ(3世紀かも?)、ローマ帝国がキリスト教を国教としたときに、帝王のお母さんがイスラエルに旅に来たようで、その時にあちこちを訪問しては、現地の人に実際の場所を尋ねたそうです。こちらの教会のある場所もイエス様がよみがえった場所として教えられたとのことで、記念に教会がたったそうです。

 

聖墳墓教会内部は、多くの人が祈りをささげていました。

 

この日のスケジュールはここで終わりになりました。

 

 

たくさん歩いた日でした。

 

 

 

 

 

イスラエル旅行記③ エルサレム(最後の晩餐からカヤパの家まで)

全部で10日間のツアーの開始です。

エルサレムは3日間かけてめぐりました。そしてその初日は特にイエス様の地上での最後の1日をフォーカスした内容でした。

 

スコピス山より眺めるエルサレム。イエス様はベタニヤからエルサレムに入城なさったので、このあたりでおそらくキャンプしたりしたのだろうか?(過ぎ越しの祭りでエルサレムは人でごった返していたと思われるので)遠くに見えるエルサレムを見て、イエス様は何を考え、思ったのか、すごく感情が高ぶるそんな一日の始まりでした。

オリーブ山からみるエルサレムです。こちらには再臨のイエス様を思って、多くの信者のお墓があります。

そして、オリーブ山の裾にあるゲッセマネの園。ゲッセマネとはオリーブ搾油所という意味です。オリーブが油のためにプレスされるように、イエス様も悶えて祈られたほどにプレスされたのだと思うと、非常に苦しい気持ちになりました。裏切るユダを3年間愛し続けたイエス様。どんな牧会者もリーダーも自分を裏切るとわかっている人とともに生活を続けたいでしょうか?また神様から引き離されるという(神である方なのに)そんなひどい仕打ちを一手に引き受けてくださったイエス様の想い。ちょっと想像を超えるものがありました。

この場所は行って良かったと思えたいくつかの場所の一つです。

 

カヤパの家の跡地も行きました。

今では教会がたっています。

おそらくイエス様もこのような場所で拘束されたのではないでしょうか?

ペテロがイエス様を3回否定した像もありました。

こちら、カヤパの家からみたオリーブ山です。一日の間にここを往復されたイエスさま。その間、何を思ったのか、深く考えさせられました。

 

詩篇88篇をみなで朗読しました。イエス様の苦しみを想い、涙が止まらない瞬間でした。

 

そして最後は屋上の間(アッパールーム)です。時間系列的には前後しますが、最後の晩餐の場所です。こちらも、教会のようになっていて、当時のものはあまり残っていません。

 

こうしてイエス様の最後の一日を思うと、ベタニヤを出発して、オリーブ山を越えて、エルサレムへ入城。そして最後の晩餐ののち、オリーブ山まで引き帰し、ゲッセマネで夜通し祈り、とらえられ、またエルサレムの中のカヤパの家まで歩き、そこからおそらくポンテオピラトの要塞まで連れていかれ、鞭うたれ、十字架を背負いながらどくろと呼ばれるところまで(シオン山/エルサレム城壁外)までいって十字架にかけられたというなかなかの距離を移動されていることがわかり、本当にくたびれたのだろうなと思います。そんなことをする必要は全くない方なのに、私のために、そこまでされた。全世界のために。

 

ことばにつまる思いでした。

 

 

さらっと書いているようですが、非常に深い一日でした。