今日は親子でいろんな話をした。
はーくん、今、社会科で政治の勉強をしているんだけれど、どうして「政府」が必要なのか…という下りの勉強だった。
PACEではね、「もし、みんな人が天使みたいな性格だったら、政府なんて必要がない」と書いてあった。←なるほどり。
人はみんな罪が有るから、だから聖書を土台とした(聖書の原則に基づいた)政府と憲法が必要なんだ…と。ふむふむ。そこから、救いと信仰について話すようにとあったので、ちょっと二人で話してみました。今日話したのは、救いを受けるということ。イエス様の十字架はすでに成就して、クリスチャンでない人のためにもイエス様はすでに十字架にかかってくれちゃったんだけれど、だからって、クリスチャンじゃない人は救われているというわけじゃないんだよ…と。あの十字架の血潮は私の罪の身代わりのためということに気づいて、「イエス様ごめんね、ありがとう」と受け入れることが救われたってことだよね~と確認しました。時々、十字架の重みっていうのかな?忘れがちだから、少し話したりできました。で、今日はそのあとの信仰生活について話しました。「救われました。でも、罪、犯しちゃうじゃん?」みたいなところで、それは霊的戦いっていうんだよね~とつっこんで話。ちょっと難しいかな?って思ったんだけれど、はーくん、最近野球とかサッカーとか少し興味があるので、「野球とかサッカーするのが仕事の人はプロっていうんだけれど、プロはさ、相手が強いってわかったらさ、もう、仕事しない?」みたいな話をしました。そしたらはーくん、「いや、ちゃんとプレーする」ってなって、「勝つためにさ、トレーニングしたりして、直したり、するよね」となっちゃん…。「クリスチャン生活も、そうやって救われたからもう何もしないんじゃなくて、サタンとの闘いもあるんだよ。でも、クリスチャンのいいのは、すでに勝ったって聖書に書いてあるよね。だから、神様に祈ったり、聖書読んだり、礼拝したりして、神様に教えてもらうんじゃないかな?」 とか。 そこから「ママも信仰生活長いけれど、今も闘ってるし、祈ってるし、聖書読んでるんだよ~。」と…。 何がどこまでわかったかはさておき、(いいんだ。そのうち神様の時っているのもあるからね) 話せて感謝。何かのきっかけで思い出すかもしれないし、「ママと話した」という思い出だけでもいいかもしれない。
以上、はーくんとの話。
そして、次は娘っ子たちとの話。
こちらは、まったくまた系統の違う話なんだけれど、タラントの話になって、タラントの多い人は世の中にはいるけれど、タラントの多い人は、プライドの罠があるかも~って話から始まった。そこから、女は仕切りたがるという罪が有るって話になって、一般的に長女っていうのは、お母さんの手伝いに始まり、要領を得ているから、友達に対してもしきりたがり(bossy)の誘惑があるよねぇ…と。長女、「そうそうそうそうっ!」と同調。そして、一般的末っ子はさ、上の失敗を見て要領がよくって、教えたがりになる傾向強しじゃない?…と。そして「教えてって聞かれるまで何も言わない方が知恵かもね」とアドバイスを受ける末娘。そんなことから親と子では、同じシーンでも受け止め方が違うという話をしました。先日、私はカウンセリングを受けて、「ゆるし」の力について分かち合ったんだけれど、ママがおばあちゃんに「どうして〇〇だったの?」ってことは、おばあちゃんは覚えてないかも…とか、そんな話から、自分がどう受け止めたかってことは自分の責任だよねって話になった。そんな中で、娘がある昔のシーンを話して、「あの時あたしは…」系の話になったんだけれど、「その時は説明もつかない年だったし、ママもそういう態度でしかできなかったんだと思うけれど、たぶん(←かなり覚えてない:ごめん、娘よ)〇〇があって、××だったから、あなたは△しなくちゃならなかったんだよ」とふつうに話したら、「あ、そうだったんだ。なら、しかたないか。」となった。
この話がさらりとできたとき、なんか、すごく破れを感じたなっちゃん。娘の要塞になるやもしれない壁が壊されたようにも感じました。別になんか特別なことをしたわけでもないんだけれど、こういったふつうの「あ、そうか、ならしょうがないよね」と言え、ゆるしあえるのは、ものすごい祝福&恵み ぢゃぁないだろうか?
きっと子供には(自分もかつては子供だったんだが…)、こういったささやかな言えないこと、疑問なこと、未解決な問題があって、それが積もり積もって間違った方向に親へのSOSとか要求として出ていたかもしれないのに、それに「従いなさい」とか「おしりぺんぺん」とかしか答えられなかった親の私だったかもしれない。でも、でも、それでも、神様との関係ということを通して家族がつながると、こんな風に傷に至らないで済むこともあるんだね…。 ただひたすら感謝です。
今まで親をやってきて、「どうしたらいいのかな?」って迷ったこともあったんだけれど、神さまは人ばっかりが気になって進めないときは、「わたしに聞きなさい」と教えてくれたし、逆に人に対して排他的な気持ちの時は人との付き合いの中に平安を求めるように教えてくれた。そして、悩んだときは神様は「いい子に育てたいの?それとも神さまの子を育てたいの?」と聞いてきてくれた。
どうでもいいことなんだけれどちょっと書くね。うちの子はジブリ作品が好きなんだけれど、ジブリってちょっと霊的にはどうなの?って部分があるんだよね。それで、どうしたらいいのか?って思ったりもしたんだけれど、「キャラクターには罪はない」とか、「(ちゃんと教会のこととそうでない偶像が)区別ができたらそれでいい」とか、自分に言い訳がましく言ったりしてね。もちろん、ジブリ作品を見る時はチャチャいれたんだけれど、最近、教会にジブリ作品が大好きなノンクリの子がいて、その子と話が合う様子を聞くと、あぁ、神様は知恵をもって育てれば、「こんなもの」と思えるものでも用いるんだなって感じます。知恵=神様に食らいついた意地とも言えるかも(笑)
つまり言いたかったことは、あぁ、まったくまとまらない。
①問題を回避しようと臆病になりすぎたり、きちんとしなきゃ!と焦ったりするのではなく、
②その時々、またその相手によって神様の答えが違うこのちぐはぐさを受け入れ、
③時には出た答えよりも「問題とどう向き合ったのか」というストーリーに意味があることもあるんだけれど
神様とちゃんとつながっているってことが大切なんだね!
人間の親は、口うるさい子供をうざがり、嫌がるけれど、
神様は うざがりませんっ。
何気ない毎日を、神様とともに歩むことが一番の恵み と感じた なっちゃんなのでした。